「好き」なものに対しては、人間ってそれなりのエネルギーを割いて知ろうとします。
では、それと同じぐらい「嫌い」なものについても知っているでしょうか?
好きなものと嫌いなものでは、接し方が異なる
多くの人は、好きなものに対しては、知識が増えていくんですよね。
それだけ、興味や好奇心が沸くので。
それに対して、嫌いなものに対しては、そのごく一部しか知らないのに「嫌い」と言ってしまうことがよくあります。
そういう意味で、「好き」という言葉と「嫌い」という言葉は、対照的で正反対なように見えても、根拠の信憑性ってところがだいぶ違うなと思います。
(まあ、本質が見えないまま浮かれて「好き」って言ってる場合も多々あるんですけどね)
「嫌い」という感情が生むバイアス
ごく一部の情報だけ受け取ってそれを嫌いだと感じると、その後の行動と心境にバイアスがかかることになります。
大きく以下の二つのパターンかなと。
- 嫌いなものだから極力遠ざけたい。理解するためのエネルギーもかけたくない。
- さらなる欠点やツッコミどころを探すために調べまくるので、アラ探しの側面が強い。
どちらも、対象を正しく理解したり受け止めたりすることが難しくなっちゃうパターンです。
なので、好きな対象に対しての理解度と比べると、嫌いな対象に対しての理解度はどうしても低くなりがちなんだと思います。
誰かの「嫌い」に引きずられないように
ヘイトスピーチの例を見てもよく分かるように、何かに対しての対しての批判や反発って、より人の共感を生みやすく、人を扇動しやすいんですよね。
仮想敵を作った方が団結しやすい、というか。
でも、上で書いたように「嫌い」って対象のごく一部を切り取って判断されがちなことが多いので、注意した方がいいだろうな、と思います。
いじめの構造だってそうですしね。
何かを「嫌い」と声高に叫ぶ人がいたら、ちょっと立ち止まってから話を聴いてみるといいかもしれませんよ。