イチモンジハゼは、怯えていた。
カゴメノリの森なんて、来たくはなかったのだ。
目の前に広がるカゴメノリは、時には憎悪の叫びを発しているように見え、
また時には悲痛な苦しみを嘆いているようにも見えた。
イチモンジハゼは、彼がまさに今ここに居ることを恨んだ。
こんな恐ろしい気分に陥ることなんて、想像もしていなかったのだから。
自分の居場所に満足している時は、その尊さに気がつかないことがよくあるものだ。
ただ、彼の母から教わっていたものがあった。
それは、とある呪文だった。
困難な状況に陥ってもそれを唱えると、不思議な出来事が起こる、というものだった。
母は、微笑みながら、確かにそう言っていた。
まだ幼かったイチモンジハゼにとって、
母親は、世の中のことはなんだって知っているように見えたものだった。
イチモンジハゼは、その呪文を唱えてみることにした。
古い本の文字がかすれていくように、一字一句の記憶は曖昧になっていたが、
なるべく正確に思い出すようにした。
こんなに知恵というものを振り絞ったことは、未だかつてなかった。
それほど、誰かの悪意だとか憎しみだとかに触れているのはイヤだったのだ。
彼は、おそるおそる、呪文を唱え始めた。
呪文は、効果を発揮した。
カゴメノリの森は、それまでのイチモンジハゼを脅かすような存在ではなく、
彼を優しく受け容れるものとなった。
少なくとも、彼の目には、そう映った。
イチモンジハゼは、またここで歩んでいくことができる気がした。
目の前に広がる世界には、たくさんの楽しいことや心温まることが待っているように思えた。
彼は、胸ビレをキュキュッと震わせると、新しい一歩を踏み出した。
カゴメノリの森は、降りそそぐ光を受けて、キラリと光った。
ところで、彼の唱えた呪文が正しいものだったのかどうかは、誰にもわからない。
とはいえ、それはもうどうでもいいことだった。
ほんの小さなことで何かががらりと変わるのは、よくあることなのだから。