※このエントリは2009年当時に書いたものですが、ブログを移行したら過去ログがちょっと途切れちゃったので、今日(2011年12月24日)再掲しておきます。

フジファブリックのボーカル・志村正彦が2009年12月24日に亡くなった。

29歳だった。

2009年は特に音楽界において不幸が相次いだ年だった、なんてよく言われる。
マイケル・ジャクソン、忌野清志郎、アベフトシ、レス・ポール、川村カオリ…。

ただ、僕にとって、志村正彦の訃報は、どのアーティストの訃報よりも重かった。

なぜ、それほど重かったのか。
なぜ、他のアーティストとは違ったのか。

理由はすぐに分かった。

僕はフジファブリックと、志村正彦と、
同年代としてこれからも一緒に歩んでいくことを微塵も疑っていなかったからだ。
(僕は1979年生まれ、志村は1980年生まれ)

「ペダル」というフジファブリックの曲がある。

フジファブリックが、志村正彦が、ペダルを踏んで自転車をこぐ歌だ。
前を進む誰か(何か)に「消えないでよ」と願いながら。

あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ
駆け出した自転車は いつまでも 追いつけないよ
「ペダル」(作詞:志村正彦)

そう、僕は志村がペダルをこいでいる横で、
これからもずっと一緒にペダルをこいでいくんだと思っていた。

マイケルや清志郎は確かに偉大なトップアーティストだけれども、
それらは自転車をこぐ僕らの横で立派にそびえる巨像だった。
巨像が消えてしまうことに心は痛んだが、
少し自転車をこげばその景色は後ろに過ぎ去っていくのだと思った。

でも今回は、横で一緒に自転車をこいでいてくれているはずの人が、
いなくなってしまった。

事前にそんな予告なんか、ちっともくれずに。

自分とフジファブリックの関係を少し述べてみる。

客観的な数字を語るために、Last.fmの僕の再生回数を参考にする。
志村に起こった出来事を知った12月25日、
フジファブリックは僕の再生回数ランキングで、合計1,619アーティスト中の26位だった。
(あれからよく聴いているので、現在は変動している)
上位に入っているし、もちろん大好きなバンドだった。

とはいえ、単独ライブに行ったことはなかった。
なので、「フジファブリックばかり聴いてる」「フジファブリックが1番」という方には
このエントリを書くにあたって申し訳ない気持ちがあるが、
あくまで自分とフジファブリック(志村正彦)との関係や思いを素直に書こうと思う。

初めて生でフジファブリックを観たのは、
2005年のロックインジャパンフェスのレイクステージ。

フェスの直前(6月1日)にシングル「虹」がリリースされ、
その曲がすごく好きになった僕も期待して観た。
まだ若い感じはあるけれど、いいバンドを観た、という印象だった。
なにより、クソ暑いレイクステージで「虹」のイントロが流れた時は、
漠とした“希望”を感じた。
そしてちょっと大袈裟に言えば、
「このバンドとなら僕の希望も分かち合っていけるんじゃないか」
そんなことを思ったのだ。

次に彼らを観たのは一年後。
同じくロックインジャパンのレイクステージ。
(トップバッターだった)

当時の自分のmixi日記を振りかえると、
「よかった。よくなってる。確実に進化している。」
と書いている。

やっぱり「希望を感じた」、そしてそれを象徴する曲が「虹」だとも。

遠く彼方へ 鳴らしてみたい
響け!世界が揺れる!
「虹」(作詞:志村正彦)

その頃(05~06年ぐらい)の僕は、公私ともに今よりもずっと鬱々としていて。
そんな自分に希望を感じさせてくれる、
そして一緒に希望へ向かっていけそうなバンドがいることがうれしかった。

「虹」の間奏、キーボードが響く中で見上げたひたちなかの空は、
バカみたいに青かった。

ただ、次に彼らを観るのは、
2009年のロッキン、さらには志村の故郷・山中湖(SWEET LOVE SHOWER)になった。
(07年はCocco、08年はBRAHMANとステージが被っていてそっちを選んでしまった)

この間に彼らは「TEENAGER」と「CHRONICLE」という
とんでもなく素晴らしいアルバムを二枚出している。
ライブには行ってなくても、私生活ではそれらを愛聴していた。
愛聴どころか、とにかくすごいアルバムを出してるアーティストとして、
(久しく観てないにも関わらず)僕の中での存在感はむしろ増していた。

「TEENAGER」でも「すごくいい!」と思ったのが、
続く「CHRONICLE」もすごくよくて、
「これは本物だ!いや、すごいバンドになろうとしているのかもしれない!」
とワクワクしていたのだ。

フジファブリックとすぐに分かる特徴的な音楽性はそのままに、
志村のハイなところも内省的なところも盛り込まれた曲たちは、
まさにフジファブリックと志村にしか作れないものだった。

「陽炎」や「茜色の夕日」で見せていた、どストレートな要素も、
さらにグレードアップして「若者のすべて」「Anthem」などに昇華されていた。
特に「若者のすべて」は、彼らの中で僕が最も好きな曲かもしれない。

志村の書く曲のまた素晴らしいところは、その歌詞。
歌詞を読んでから曲を聴くと、
引き込まれるようにフジファブリックと志村正彦が好きになってしまう。

気持ち伝えるのに いつも人は何故に
これほどまでに悩むのでしょう
「ないものねだり」(作詞:志村正彦)

真夏の午後になって うたれた通り雨
どうでもよくなって どうでもよくなって
ホントか嘘かなんて ずぶぬれになってしまえば
たいしたことじゃないと 照れ笑いをしたんだ
「星降る夜になったら」(作詞:志村正彦)

曖昧なことだったり 優しさについて考えだしたら
頭の回路 絡まって 眠れなくなってしまうよ
「ロマネ」(作詞:志村正彦)

茜色の夕日眺めてたら少し
思い出すものがありました
短い夏が終わったのに
今 子供の頃のさびしさが無い
「茜色の夕日」(作詞:志村正彦)

あまりたくさん歌詞を読むと、
また泣けてきてしまうのでもうやめておきます。

けど、どの歌詞も素晴らしい文学性と抒情性を兼ね揃えていて(ここらへんは評論家に任せた)、
読めば読むほど、曲を感じれば感じるほど、志村が好きになってしまうんだ。
ハイな時はめっちゃ騒いで、
思案に暮れる日は自分の中に閉じこもる、
志村正彦という人間が。

それはきっと僕にも、そして同世代の多くの人にも共通していて、
だからこそ彼が愛される理由になるのだと思う。

そうやって“人間らしく”喜んだり、落ち込んだりしながら生きている人がいる。
そして、僕(たち)はそういう同年代の志村と一緒に歩んでいく。

そのことがただただ、うれしかったのだ。

志村の曲に対するそういった思いは、New Audiogramのインタビューで読むことができる。

最近は、人生最高、生まれてきて良かった、
1億人のなかの君と出会えて幸せだっていう曲が
世の中のスタンダードとされているじゃないですか。
それは全然悪いことではないんですけど、
僕の場合は、まだ身の丈が合ってないのか、そこには共感できないんですね。
それよりも、自分の弱いところやネガティヴなこ と……
ネガティヴと言っても悪い意味ではなくて、
誰しもが感じるちょっと後ろ向きなことを楽曲にしたいなって思ったんですよ。
ある意味、そういう楽曲を作ることで消化して、
辛くなくなるんじゃないかっていう希望を込めたし、
当時の僕が、民生さんが”とても辛いよ”と歌う楽曲に救われたように、
僕と同じよう に満たされない境遇にいる人たちが共感してくれたら、
僕がここまでのものを吐き出した労力は報われるんじゃないかなって思いますね。
New Audiogram : PREMIUM : フジファブリック

そういえば、2009年のロッキンを控えたある夏の日、
帰り道で「ペダル」が流れてきたら、なんだか涙が浮かんできたことがあったな。

僕にとってフジファブリックや志村正彦は、そんな大切なアーティストだったのだ。

話を戻す。
そうして2009年のロッキン。

久しぶりに聴いた志村の歌声は、正直やや微妙だった。
(その時のエントリでもしっかりそう書いてしまっている)

もちろん、曲が素晴らしいだけに「もったいない!」という意味。
「虹」のサビの高音などは、明らかに出ていなかった。
それはSWEET LOVE SHOWERでも同様。
(けれど故郷の富士山麓に帰ってこられた志村が嬉しそうだったのは印象的だった)

そしてそれが、僕が最後に見た志村になってしまった。

その時点では、もちろんこんなこと0.001%も予想していなかった。
気分的には、志村と肩でも組みながら
「もっと歌練習しろよー、あんなに曲いいんだから!じゃないと今度は観ないぞー(笑)」
なんて冗談を言い合っているようなつもりだった。
(あの声の調子が急死に関係があったのかどうかはわからない)

とはいえ、志村の歌が…なんてのは正直どうでもいいことで、
僕にとって志村とフジファブリックはこれからもまだまだ一緒に歩いていく存在だと思っていた。
そっちの方がよっぽど大切なことだった。

「次に生で観る時は、ボーカル面も含めて驚かせてくれるだろ?」
という“アーティスト的な”期待もあったけれど、
それよりも志村は“同時代を生きて同じようなことを感じる一人のダチ”に近かったんだ。

普段、周りの親や友達に対してって、特異な才能を求めてはいないと思う。、
その人への親近感や共感、時にはどうしても憎めない何かがあったりして、
その人が無事に生きててくれて(願わくば)自分の近くにいてくれればいい、
人生いろいろあるけれど一緒に生きていこうよ。
身近にいる人っていうのは、そういう感じなのだと思う。

志村は僕にとって、(アーティストにも関わらず)そんな人だった。

本当の意味でそれを実感したのは、2009年の暮れのことだったけれど。

志村が29歳でこの世界からいなくなってしまった数日後、僕は30歳になり、
その数日後、2009年は終わって2010年が始まった。

志村が足を踏み入れることができなかった世界。
僕の隣に志村はいない。

志村はあの角を曲がって見えなくなってしまったけれど、
僕はペダルをこいでいかなければいけない。
志村が遺してくれたたくさんの素敵な曲と一緒に。

それらの曲は輝きすぎていて、きっとこれからもその輝きが失せることはなくて、
例えば夏の終わりに花火を見るたびに志村のことを思い出してしまうのだろうけれど。

最後の花火に今年もなったな
何年経っても思い出してしまうな
ないかな ないよな きっとね いないよな
会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ
「若者のすべて」(作詞:志村正彦)

こんな曲ばかり遺していって…。
「消えないでよ 消えないでよ」って、言いたいのはこっちの方だよ、志村。

けれどペダルをこいで進んでいかなきゃいけないんだね。
志村が見ることのできなかった世界を。

志村正彦とフジファブリックのことを初めて知った方は、よかったらこれらの曲を聴いてください。