2011年3月11日金曜日。大きな地震が起こった。
後で聞くに、それは午後2時46分のことだったようで、東北地方太平洋沖地震と名付けられた。
今はそれから3日経った3月14日月曜日だけれど、ごく私的な覚え書きを残しておこうかと思う。
地震が起こった時、僕は名古屋から新大阪に向かう新幹線の中にいた。
いや、でも「地震が起こった時」なんていう実感はなくて、新幹線がただすーっと止まっただけだった。
揺れはまったく感じなかった。
僕はiPhoneで音楽を聴きながらTwitterを見てた。
僕が見てたのは14:46より10分ぐらい前のTL(タイムライン)で、そこにはまだ地震が起こっていなかった。
でも新幹線が止まってから(ヘッドホンをしてるので車内放送はよく聞こえない)、TLが14:46を越えると、ちょっと尋常じゃないほどの地震postがずっと続いた。
東京の人たちが「こわい!」「すごい揺れ!」と次々に言っていたので、そこで初めて「これはちょっとえらいことなのかもしれない」と思い始めた。
しかも大阪の人まで「○○が落ちた!」と言っていて、その地震の巨大さが徐々に分かってきた。
あとはTwitterをひたすら見ていた。
そこで得られた情報がどこまでの情報だったか、覚えてないけれど、「これはやばい」ということだけはよく分かった。
TLの流速も半端なかった。
僕の頭にまず思い浮かんだのは、東京にいる嫁と、母親、そして施設に入っている父親のこと。
三人はそれぞれバラバラで、嫁は僕が出張中なので家に一人(その日は仕事がない日だった)、母親は実家に一人(ただし勤務中)、父親は車椅子で施設の中。
iPhone(ソフトバンク)の電話とメールはもうダメっぽかったので、嫁にTwitterでDMを送った。
これが問題なく送信できて、まずホッとした。
脱線するようだけど、このごく私的な覚え書きエントリにもし結論があるとしたら、それはもう一つしかない。
家族や大事な人にTwitter・Skypeは絶対登録してもらっておけ
嫁はSkypeのIDこそなかったけれど、TwitterのDMでチャットのように連絡が取り合えて本当に助かった。
あれがダメだったらと思うと、ゾッとする。
(特に被災地の方はその辛さをずっと味わっているかと思うと、言葉がない)
この大地震は、日本においてSkypeが「仕事道具」から「生活インフラ」に移行する大きなきっかけになるんじゃないか。
嫁は一人暮らしもしたことがないので、これほどの地震があって一人ですごく不安なのは容易に想像できたし、下手したらパニック状態そしてPTSDになるのではという恐れもすぐ頭に浮かんだ。
とにかく不安を和らげるような言い方(書き方)で、家の中でどうやって余震に備えるといいかを簡潔に伝えることに注力した。
止まっていた新幹線は、すでに新大阪のすぐ手前だったこともあって、約20分ぐらいで復旧。
大阪に着いて、そこから仕事場に迎えた。
ただ、静岡や東京に近い場所を走っていた新幹線は、やはり数時間は暗い中に閉じ込められていたようだ。
新大阪駅は、改札周りでは電車が止まったことによる若干の混乱があったけど、僕が感じていた「これはやばい」という温度よりも街の中はだいぶ低いように感じた。
そこはたぶん、単純に情報(東京の様子・そしてもっとひどい東北の様子)の多寡だと思う。
大阪で仕事場に着いて、そこでテレビを見させてもらった。
(むしろみんなテレビから目を離せないでいた)
テレビでは、すでにひどい光景が流れていた。
Twitterを追うだけでも事の重大さは十分に分かってはいたけれども、やはり映像で見ると違ったリアルさがあり、胸に刺さる。
母親には電話もメールも通じないので、iPhoneのSMSでこちらの無事は伝えるメールを送りっぱなしになっていた。
その日の夜には向こうから「大丈夫?」というメールが届いて、その時点では僕のメールはまだ届いてないようだったけれど、母親の安否は確認できた。
その母親のメールが落ち着いていたので、父親も大丈夫なんだろうと分かった。
父親も大丈夫とメールでちゃんと確認できたのは、翌朝のこと。
父親は車椅子の生活なんだけれど、僕が一番心配したのは地震発生時にストッパーがかかっていただろうか、ということ。
普段から車椅子のストッパーをかけておく習慣がいかに大切かも、身に沁みた。
父親は全く大丈夫(無傷)で、むしろ施設の中は(おそらく地震発生時さえ乗り切ってしまえば)下手な環境よりもよっぽど手厚くケアされるようだ。
僕はと言えば、大阪での仕事が終わった時点で、小田原~東京間の電車は不通で、首都圏の交通もマヒしていた。
これは帰れない(無理して帰らない方がいい)ので、大阪に泊まることに。
その大阪の宿の手配でもいろいろとあったのだけど、それについてはまた次のエントリで。
そんなわけで、当日の覚え書きは以上。
阪神大震災の日や9・11、そしてこの東北地方太平洋沖地震の日。
何年経っても、平和な日に戻っても、「あの時、何してた?」という会話ができてしまうほど、強烈な爪痕を残した日になってしまった。
そんな日の、ごく私的な覚え書き。
「生きている」というのはそれだけで本当にありがたいことだ。