言葉の重みをわかってる人、わかってない人

同じ言葉でも、それを「誰が」言ったかによって、その言葉の響き方ってまったく違うんですよね。

例えば、「365日、昼ごはんはカレーライスです」っていう言葉(事実)をイチローが言うのと他の人が言うのでは、受け取り方も違います。

イチローが言っていると「ああ、やっぱりルーティンって大切なんだな……」とか思っちゃいますよね。
(ほんとに365日カレーを食べてる人も、それはそれで気になりますが)

「誰が」言ったかについて、自分の過去のツイートを探ってみたらちょいちょい同じ意味のことを言ってました。

「言葉の重みをわかっている」かどうかの境目

では「言葉の重みをわかっている」ってどういうことなのかを考えてみました。

まず、「嘘や見栄を言わない」というのは大前提としてあると思います。

それは前提として、もう一つ重要な要素として「客観的に意味の通じないことを言わない」っていうのがあると思うんですよね。

ちょっと分かりにくい表現ですが、どういうことかと言いますと。

例えば、「わたし、お金がなくても十分に幸せなの。世の中、お金が全てではないのよ」って言ってる人がいたとします。

こういう「お金がなくてもいい人生」的な言葉って、ウケがいいし、一見いい言葉に聞こえますよね。

でも僕が大事だと思うのは、「その人はお金が潤沢にある暮らしも経験した上で言ってるのかどうか」っていうことです。

そっち側(お金のある暮らし)も経験した上で言ってるんなら、その言葉にはしっかり重みがあります。

ただ、その経験がないまま言ってるとすると、その言葉って軽いんですよね。

逆に、以前に新聞で、とても給料の良い大手上場企業を辞めたおじさんの話を読みました。

何の仕事をやり始めたかは覚えてないんですが、「サラリーマン時代と比べて年収は3分の1以下になったが、今は幸せ」って語ってたんですよね。

そういう人の言葉だと、聞く側としてもすんなり腑に落ちます。

僕にとって「言葉の重みをわかっている」というのはそういうことです。

ちなみに僕のことを言うと、もともと大学を卒業するときに「自分、絶っ対にサラリーマンとか向いてないよな…」ってほぼ確信していました。

ただ、サラリーマンを一度も経験せずにそう言うのと、一度経験してからそう言うのはだいぶ違うと思ったんですよね。

というか一度も経験せずにそう思ってるのって、なんかかっこ悪いなと思ったんです。

なので僕はサラリーマンになることにした、というのがあります。

案の定、自分には向いてないなと思いましたが、その経験があるからこそ「やっぱり自分にサラリーマンは向いてない」と言う言葉に意味が出てくるのかなと思います。

無意識のうちに適当なことを話していることは多い

重みがないほうの話って、話の筋としては適当な構造になってるわけです。

さっきの「お金のある暮らし」の例で言うと、「どっちも体験したことがないとそれって言えなくないですか?」っていうツッコミが容易に可能なわけですよね。

でも言葉を発している本人はそういう意識はなく、なんとなくな感じと推測で語っていて、そこに至るまでの考え方もどこかで変に流されちゃってるわけです。

似たような例に、他の国のことをすごく知ってるわけでもないのに「海外と比べて日本は……」と言っちゃう、面識があるわけでもない芸能人のことを「あの人はこうだから……」と断言しちゃう、などが挙げられます。

それらって「適当な話」に分類されちゃうわけですが(繰り返しますが本人にその意識はない)、適当なのは言葉ではなくて、その根っこにある考え方や生き方なんですよね。

なので、この話に結論があるとしたら、考え方がふわっとしてる人の言葉は軽い、逆に言えば考え方がしっかりしている人の言葉には重みがある、ってことです。

こんなことを書いてる僕も、普段の会話では適当なことばっかり話しちゃうので、「あいつの言葉、軽いなー」とか思われてるのかもしれませんが(笑)。

まあそれはそれ、これはこれで。