彫刻家・土屋仁応(つちやよしまさ)さんの個展「私的な神話」に行ってきました。
いやはや、素晴らしかった!
僕はアートという分野にあまり詳しくないんだけれど、土屋仁応さんの作品はどこかウェブ上で見かけて、すごく気になってた。
それで今日2011年1月18日から銀座で個展をされるというのを知って、カレンダーに予定を入れて楽しみにしていたぐらい。
よかったら土屋仁応さんご本人のウェブサイトもご覧いただければ、と。
YOSHIMASA TSUCHIYA
どう素晴らしいと思ったのかを伝えるために、こちらから作品画像を拝借しています。
(この作品のオフィシャルの写真を撮られた竹之内祐幸さんも素晴らしい)
会場はメグミオギタギャラリー MEGUMI OGITA GALLERY。
地下に降りて行ってドアを開けると、打ちっぱなしコンクリートの、広い、白い、無機質な空間が。
そこに土屋仁応さんの作品が並んでいた。
まず衝撃というか、心を打たれたのがこの「私的な神話“Private Myth”」という作品。
今回の個展のタイトルにもなっている。
半人半馬というのはいわゆるギリシャ神話に出てくるケンタウロスなんだけれど、この作品にはそういうヨーロッパ的なるもの・匂いが全くしない。
これが土屋仁応さんの独創的な彫刻の一つの特徴。
そしてこの表情とも言えないような表情。
穏やかな仏様のようにも見えるし、思案に暮れて悩む現代の青年のようにも見える。
しかも両手はまるで「無意志こそが意志」であるかのように、他のどんなポーズをとるわけでもなく、ただそのまま下に下がっている。
そこから僕の頭に浮かんだ言葉は、「受容」、「平衡」、「無色」などなど。
この作品を実際に目の前にして、僕はその受け止め方がなかなか分からず、そしてその状態がとても心地良いという感覚に襲われた。
答えが分かる作品よりも答えが分からない作品の方が衝撃は大きいわけで。
例えば映画にしても「悲しめばいいと分かる映画」や「楽しめばいいと分かる映画」よりも、複雑な感情に襲われてどう受け止めていいのか分からなくなるような映画が僕は好き。
そんな「僕が好きな感覚」を(僕が全く詳しくない)彫刻というアートの分野で感じたのは初めてだった。
この、どこにも属していないような完全に独創的な作品が、すごく無機質な空間にぽつん、ぽつんと置かれているのである。
それは素晴らしい空間で、そこにいるのがとても心地良い体験だった。
実はこの「私的な神話“Private Myth”」と同じぐらい気になった作品が、入口を入ってすぐ左側にあった。
それはユニコーンのような角を生やした想像上の生物だったのだけれど、その作品からも同じような感覚を受けた。
(写真はアップされてないみたい)
こちらは「小鹿“Fawn”」という作品。
半人半馬と同じく、この作品もまた、何も発散していない。
何も発信していない。
ただそこに在る。
全てを受け容れるかのように。
けれどその存在感がどんな物よりも重く、何も主張していないはずなのに結果として作品が圧倒的に存在している感じ。
また、作品(動物)の瞳はクリスタルで出来ている。
近くで見ると、その控え目な美しさ、そして肉をナイフでスッと切ったかのような周りの“裂け目”にギョッとするのだ。
そこだけは唯一、リアル。
急に現実に引き戻されるような感覚を受ける。
「象“Elephant”」という作品。
なんという無防備さ。
「何もしない」というのは、こういうことを指すのではないか。
その「何もしない」ということの存在感が強烈に襲ってくる。
これは「麒麟“Qilin”」という作品。
(ウェブサイトや個展パンフレットのトップにも使われている、代表的な作品)
麒麟は中国の想像上の動物なわけだけれど、「中国の彫刻」という印象は全く受けない。
土屋仁応さんの作品がヨーロッパもアジアもそして時間軸をも超えて存在してるのが分かる。
ただ、この作品だけは他の作品よりもざらっとしたものを感じた。
他の作品のように静謐な川の流れの如くすーっと流れていく(あるいは僕の心の中に入ってくる)感じとは、少し違う。
具体的には、各部分の中国的なる装飾だとか、実際に目の前で見ると特によく分かる鱗の存在がそうさせているのではないかと思う。
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一通り回って、受付で今回の展示「私的な神話」のパンフレットと前回の展示「夢をたべる獏が夢みる夢」のパンフレットを二冊買った(二冊で700円、安い)。
「夢をたべる獏が夢みる夢」は生で拝見していないので、パンフレットをめくって作品を眺めてみた。
なんというのだろうか、もちろん土屋仁応さんの作品に違いはないのだけれど、今回の「私的な神話」とはまた少しだけ違うものを感じた。
それはおそらく、作品から発せられるほんの僅かな「意思」ではないだろうか。
「私的な神話」で作られた生物たちは、何もしようとしていない。
ただひたすらにそこに立ち、存在している。
それに対し、例えばこの作品のような「夢をたべる獏が夢みる夢」の生物たちは、僅かに意思や気持ち、心を有しているように見える。