上司の愚痴から解放され、自宅からの最寄駅で終電を降りた。
駅から徒歩12分。
バスタブに張られた温かいお湯に、早く会いたかった。
街灯は、チカチカと点いたり消えたりしている。
「無駄な道路工事より、こういうのをどうにかしてくれよ」
いつも通るたびにそう思うのだが、
僕はそれを陳情する相手も分からないし、
発言に影響力を持つような社会的立場など、なおさら持ち合わせていない。
ただ、家までの帰り道は、いつもなんだか陰鬱だった。
その気分をどうにかしてほしいだけだったのだが、
街灯の不備がどこまで影響しているのかは、よく分からない。
不況だなんてことは、分かっている。
僕だってどうにかできるものならしたいのだが、
「なにせ不況だからなあ」と決まり文句のように嘆く上司を見ていると、
だんだんとそれを言い訳にする方が会社員らしいような気もしてくる。
こんな会社員になりたかったんだっけ。
夜の帰り道は、
そんなことまで考え出そうとしてしまうから、いけない。
妻と小学4年の娘の顔を思い出せば、
少しはモヤモヤとした気持ちも薄れる。
夢とか、希望とか、未来とか、そういったものの、モヤモヤとした残りカス。
もうすぐ家だ。
妻が待っている家だ。
娘は、今日も寝てしまっているだろうか。
そんな時、目の前に白っぽい物体が浮かんでいた。
飛ぶでもなく、落ちるでもなく、その空間に揺れている。
ハリセンボンだった。
ハリセンボンは、笑っているように見えた。
当人にしてみればどうなのか知らないが、
僕には笑っているように見えた。
「なあ」
僕は、声をかけた。
「なあ、楽しいことでもあったのかい?」
僕には、そのハリセンボンの笑顔が新鮮だったのだ。
近頃、周りの人が笑っているところなど、あまり見たことがなかった。
「楽しいことがあるんなら、僕にも教えてくれよ」
ハリセンボンは、何も話さなかった。
もしかしたら、言葉は話せないのかもしれない。
けれど、僕には気になってしょうがなかった。
「教えてくれよ、なあ。
何が楽しいんだい?
どこに行ったら、楽しいことがあるんだい?」
ハリセンボンは、相変わらず言葉を発さなかった。
そして、ふわふわと浮上し始めると、夜の空に消えていこうとした。
「なあ、待ってくれよ!
教えてほしいだけなんだ!
どうやったら楽しく生きることができるんだい!?」
僕の言葉は全くの徒労に終わり、
ハリセンボンは闇の中に消えて行ってしまった。
僕は、その場にポツンと取り残された。
だが、しばらく立ち尽くした後、
ハリセンボンのことはもう気にかけていなかった。
あれだけ投げかけた質問への答えも、どうでもよくなっていた。
そうなる方が、正しいことなのだという気がした。
僕は、再び家への帰路についた。
頭の中は、妻と、温かい風呂、
そして明日のプレゼンの資料のことが占めていた。
周りはいつもの帰り道の風景に戻った。
街灯は、相変わらず気だるそうに点滅を繰り返していた。