先週は、会社の先輩が亡くなった一週間でした。

その先輩とは仕事では全く関わらないので、先輩(Aさんとします)が亡くなったことを知らされたのは、命日の二日後。
そこからお通夜、葬儀が行われ、僕は葬儀に出てきました。

僕が今の部署に異動した当初から、Aさんは印象が強かった人でした。
性格面ですごく目立つというわけではなく、外見面で病的なまでに細かったんですね。
(後から知った話としては、それはやっぱり病気だったんですが)

仕事で関わることがないと(席も離れているし)、普通はあまり会話を交わすことがありません。
ただ、Aさんは僕の変な髪型を気に入ってくれたみたいで、たまにトイレの近くで話したりして、それをきっかけに飲みに行ったことがあったんです。

僕はあまり会社の人と飲みに行くことがないので、それは珍しい機会でもありました。
その飲みの日、Aさんは同期のBさんも呼んで、三人でよくある飲み屋に行きました。
(AさんとBさんはそうやってよく飲みに行っていたようです)

僕は、「Aさんって面白い人なんじゃないか」っていうちょっとした期待があったんですね。
この場合の面白いというのは、例えば明日のことや未来のことを楽しそうに語る人、という意味です。
ただ、Aさんが話していたのは、過去のことと愚痴がほとんどでした。

(おそらくいつものように)BさんがAさんの愚痴を頷きながら聞いてあげる、というような構図。
結局、僕がAさんと飲みに行ったのは、その一度だけでした。

今回、Aさんの訃報に触れて一番最初に思い出したのは、「あの夜Aさんが愚痴ばかりを話していたこと」です。

僕の人生とAさんの人生は、交差するようで結局は交差しませんでした。
ただ、交差しなかったことと悼む気持ちというのは、ほとんど関係がないんですよね。

どんな人でも大切にしている人がいて、また同時にその人を大切に思っている人がいます。
Aさんには、奥さんと小さなお子さんがいました。
あの夜にAさんが吐き出した愚痴の裏には、いろんな現実との摩擦の痕が刻まれていたんだと思います。

その、「誰しもがその人の人生を生きている」という事実への想像力は持っていないといけないなと思うんです。
自分とその人との関わりの深さとは関係なく。

その想像力は、例えば葬儀でお棺のそばにいる奥さんや身内の方々を見ると、途端に現実のものとしてせり出してきます。
でも、それを自分の目で見ずとも、想像力を働かせていたいな、と思うんですよね。

自分の人生と交差する人であれ交差しない人であれ、その人は自分の人生のど真ん中を歩んでるわけで。
その事実への意識はいつも持っていたいな、と思ったのでした。

Aさんの葬儀の際、奥さんが気丈に明るく話していた、Aさんとの間に起こった奇跡のような出来事が心に残りました。
その奇跡のような出来事を僕のブログで紹介とかしてしまうと途端に陳腐になってしまいそうなので、やめておきます。

Aさんのこと、Aさんと一度だけ飲んだ夜のことを思い出しながら書いたエントリでした。